シシドのヒトリゴト

きょうも指先に心をこめて

自分のはたらく場所は、自分で作ったらいいのかも

仕事がなくなるのが怖い。
毎月の収入がなくなったら、どうやって生きていけばいいのか見当もつかない。今は夫がなんとか会社にいってくれているけど、いよいよダメだとなったら、私がもっと現実的な額を稼げるようにならないといけない。

同じ非正規の同僚と、「次はどんな仕事をやりたいか」休み時間におしゃべりした。私たちは二人とも期限付き雇用なので、来年にはまた無職になってしまう。
「あんな仕事がしたい」「こういう職場がいい」と好き勝手に言ったあと、「でも、ないよね~そんな会社」「誰か作ってくれないですかね・・」と言って、ふたりとも黙ってしまった。

でも、「自分が働きたい場所」を「誰かが作ってくれる」のを待っていたって、本当に作ってくれる保証はどこにもない。入社する前はすばらしい職場に見えたのに、実態はボロボロっていうこともある。だったら、自分でそういう場所を作ればいいんじゃないか。

起業するってリスクがめちゃくちゃ高くて、成功する確率は低いと聞く。大企業で成果を上げている優秀な人でも失敗する。会社勤めの向き不向きもあるんだろうけど。とにかく、借金を抱えて倒産したら、家族まで巻き込んで悲惨なことになる。

でも、私はどうせ無職。職を失っても別に怖くない。振り出しにもどるだけだから。むしろうまくいったら儲けもの、くらいの感じ。借金は怖いけど、小さく初めてだんだん大きくしていくとか、「ここまで損失を出したら撤退」っていうラインを決めておけば、そこまで損失が大きくならないのではないかと思う。

まあ、実際そんな甘いものじゃないだろう。なめてかかったらきっと失敗する。やってみたらイメージと違ってた!なんてこともいくらでもあると思う。だけど、例え失敗に終わったとしても、経営を自分でやってみた、ということはきっと大きな力になる。少なくとも、会社や社会に対する不平不満をだらだら言うだけで一生を終えるよりはいい。

そんな感じで夢の種が生まれたので、あとはのんびりゆる~くアンテナをはって、もし引っかかるものがあればやるかもしれないし、やらないかもしれません。あくまでゆる~く行きたいと思います。

それではまた。よい週末を!

 

知る人ぞ知る「御胎内神社」でもう一度産まれ直してきました

富士山の麓に、ひっそりとその神社はあります。その名も「御胎内神社」。名前からしてちょっと異様な雰囲気です。

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この神社の最大の特色は「御胎内」と呼ばれる洞窟です。富士山の噴火の影響でできたその洞窟は、人の体の中を模していると言われており、中には肋骨(らしき岩肌)やら小腸(らしき岩肌)、なでると安産になるという岩など見どころがたくさん。

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洞窟の中は、ひんやりとして本物の暗闇が広がっています。本物の暗闇は、想像以上に怖いです。岩肌はごつごつして、床面は濡れて滑りやすいので、なにも明かりがない状態では進むことができません。(首から下げるタイプの懐中電灯がオススメです)


なかでも一番大変なのが、「子返り」と呼ばれる場所で、とても天井が低く、手足をつかないと前に進むことができません。そうやって進むうちに上のほうに光が見えてきて、「わー、産まれた!!自分!」という気持ちになって洞窟から出られます。

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【洞窟内に入るときの注意】
・懐中電灯必須
・荷物はリュックにいれるなどして手に持たないほうがいい
・けが防止のため、帽子と軍手があるとよい

 

洞窟の暗闇は想像以上に怖かったです。産まれる前の自分は、初めて光を見たときどう思ったんだろう・・と不思議な気持ちになりました。

近くには温泉も湧いているので、機会があればぜひ立ち寄ってみてください!

【参考リンク】

御胎内清宏園 | 御胎内温泉健康センター

 

 

 

時には穴に落ちてもいいから、全力で駆け抜けたいと思った

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かけがえのない人生。ただ一度きりの人生。そういう言葉を聞くと胸が苦しくなる。時間は後戻りできないのに、一体私は何をやっているのか。

どうすれば意味がある人生になる?

何をすれば、周りに置いて行かれないですむのか?

そんなことを考えれば考えるほど、なにもできなくなってしまう。

私は、できるだけほかの人より「うまくやり」たい気持ちが強かった。
泥だらけの道を行くより、舗装された道を選んで、
落とし穴に落ちないように、注意深く進んだ。
そうするうちに、「うまくやること」が目的になっていった。

でも、たとえば私が最期の瞬間を迎える時に、
「ああ、最期までうまいことやったなぁ」なんて、考えるだろうか。
落とし穴に落ちずに最後まで逃げ切ったって、たどり着く先はみんな同じ場所なのに。

人生を「長い1本の線」としてとらえずに、「いまこの瞬間」に集中すべきなんだと思う。もっと周りをよくみて、いろんなことを感じて、受け入れる。自分や他人の失敗に対してもっとやわらかくなること。たとえ人生を棒にふったとして、それでも日が昇れば暖かいし、花は咲くし、おいしいごはんは作れるのだ。

落とし穴に落ちないように、下ばかり見て歩くより、
時には穴に落ちたとしても、力の限り駆け抜けることを選びたい。

やっと満開になった桜の下を歩きながら、そんなことを思った。

 

 

中学生相手になら、理不尽な暴力をふるってもいいのか

書くのにちょっと勇気がいるのですが、「自分に嘘をつかない」ということで書いてみたいと思います。

私が通っていたのは、ごく普通の、田舎の公立中学校でした。そこで過ごした3年間は、私の人生の中でも暗黒の3年間です。学校全体に閉塞感と無力感が満ちていて、いじめや暴力がたびたび起こりました。窓ガラスは割られ、校門は壊されました。女子の中には、援助交際をしている子、望まない妊娠をしてしまった子もいたそうです。

私が傷ついたのは、同じ生徒同士の関係のなかではなく、教師との関係のなかででした。

私はどちらかというと地味な生徒で、勉強もまじめにやっていました。当たり前ですが、特定の誰かをいじめたり傷つけたりすることも、しませんでした。
それなのに、教師にいきなり後ろから髪を引っ張られたり、カビくさい倉庫に呼び出されドアに鍵をかけられたり、授業中にひとりで朝礼台に正座させられ、クラスメイトが帰ったころに頭を殴られたりしました。
理由は、肩に髪がつきそうなのにゴムでしばっていなかったとか、受け答えの口調が気に入らないとか、そういうささいなことでした。

教師という立場を利用して、特定の生徒に対して理不尽な暴力を振るうのは、イジメとどこが変わらないのでしょうか。

私は、「早く高校に行って、大学受験してこの町を脱出する」ということをモチベーションに、ひたすら勉強しました。わけのわからない権力をつかう教師も、乱暴なクラスメイトも、どんよりした空気が漂う学校も、なにもかもみんな大嫌いでした。

不登校になりたかったけれど、家に居場所もありません。38度の熱が出ても、「義務教育なんだから休むな」と登校させる親が、不登校など認めてくれるはずがないのです。自由を手にするには、両親が納得する大学を受験して、一人暮らしをするしかありませんでした。だから私は毎日毎日、卒業までの日数を数えて暮らしました。

私があの中学に通ってよかったことがあるとすれば、それ以降どんな嫌な目に合っても、「少なくとも中学時代よりはマシだ」と感じられるようになったことです。
それ以外のことは、特にありません。

この文章を読んでくださった方の中には、「シシドは30近いのに、まだ中学生時代のことをひきずっていて恥ずかしくないのか」と思う方もいらっしゃるかもしれません。私自身もそう思います。恥ずかしいのに、中学時代に感じたあの息苦しさを、いまだに忘れられません。中学時代のことを思い出すだけで、嫌な味のする虫を食べてしまったみたいな気持ちになってしまうのです。

この感情にどう折り合いをつけたらいいのか。

長い時間がたった今でも、私にはよく分からないのです。

 

 

 

「1時間1万円のオレが2時間かけて作ったカレーは2万円」という考えの落とし穴

システムエンジニア(以下SE)の業界には、「人月単価」という考え方がある。一言でいうと、「SEの誰々さんを1か月働かせるといくらですよ」システム開発会社が事前に決めた値段のこと。この値段は、ベテランSさんだと80万円、新人Bくんだと30万円という風に、その人の経験年数や技術力によって、値段が違ってくる。

とてもシンプルで計算しやすい。これはこれでいい仕組みだ。ただ、この考え方が染みついてしまうと、日常生活でも「より早く、より多くの成果を出したほうが勝ち」みたいな感じになってくる。

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例えば、「時間単価1万円のオレが2時間もかけてカレーを作ったら、2万円のカレーになってしまう。だったら3分でできるレトルトカレーのほうが上だ!」という価値観。
たしかに、より短時間で、カレーという成果物を得るという意味では、レトルトカレーのほうに軍配があがる。

でも、レトルトカレーには、物語がない。沸騰したお湯に入れて、封をきったらハイできあがり。それ以上でも以下でもない。
対して、2時間かけて作ったカレーには、自分が五感を使って感じた物語がある。大量の玉ねぎが目にしみて悪戦苦闘したり、へぇガラムマサラってこういう香りなんだって発見したり、ちょっとレシピと配分変えてみよう、とか工夫したり。
そうやって作ったカレーのほうが食べたとき絶対に満足度が高いし、誰かに「おいしい」っていってもらえたりしたら、めちゃくちゃうれしい。

物語がない毎日は、効率は良いかもしれないけどなんだか味気なくて、「生きている」って実感がどうしても薄くなってしまう。

というようなことを今日、自分で2時間かけて作ったカレーを食べながら考えた。お金をかけれないんだったらそのぶん、手間とアイデアで勝負する。きっと、人生も同じだなって思います。

 

よし、明日もがんばる!!